


備前焼などと同じで、今城焼は完成された釉薬を掛け焼くというのではなく、灰や土が自然に交じりあったものが、窯の中で様々な窯変をおこしながら発色しています。
ロクロは古来の技法の逆時計回りに回して成形します。またタタラや打ち込み技法を特徴とします。
日本の黎明期、高槻はその重要な陶芸文化発信の地でした。「日本書紀」には、この地に日本最古の大規模な官立の陶芸工房や多くの窯が稼働していたことが記されており、事実、十数基の窯跡や工房跡がFIELD土香の北西に発見され大変な話題となりました。
また、発掘された土器には様々に施された「水滴文様」や古代朝鮮「新羅・伽耶文化」を継承した様式等も窺え、まさに日本の本格的陶芸文化の源初の地のひとつだったことが想像できます。
この高槻の古代陶芸文化は、皇室にもむすびつくものであるとされ、第26代継体天皇(507年~533年)は、この地に自らの大規模な天皇稜を築き埋葬土器や埴輪を造らせるほどでした。
この地で営まれた陶芸の技術と生産は、5世紀から9世紀頃には瀬戸・猿投方面にほとんど移り、これらの地が日本の陶芸文化の中心的地位を占めるようになっていきました。そして、いつしか高槻を含む北摂の陶芸の地は人々から忘れられていったのでした。
陶芸家・安見一念を中心とする陶芸集団「窯龍会」は、古代東アジア陶芸文化の研究の中で、古代朝鮮新羅伽耶陶芸文化の伝播経路から、日本の陶芸文化のルーツ的存在の一つでもある、この地域の陶芸文化の歴史的重要性をふまえて、その忘れられた文化の、現代への復興を行ってきました。
FIELD土香の北側には、二重の堀をめぐらした巨大な前方後円墳が隣接しています。この古墳は、太古の時代、日本文化発展に多大な貢献をした継体天皇の墓(継体天皇陵)であるともいわれており、地元では今城塚古墳と呼ばれてきました。今城焼の名はこの地にちなんで命名されました。